「服装は、剣道着・袴とする。」と簡明に表現していますが、現今の日本人自体が、日本の着物に対する知識が希薄になってしまっていますので、ここにいう剣道着・袴は、どういうものを指しているかを簡単に述べてみようと思います。
 この規則で定める剣道着・袴は、大会などの際に演ずる「日本剣道形」の演武者が着用する、家紋の付いている礼装用の着物・袴を指しています。
 この紋付・袴の正装は、今日では男子なれば誰でも着用できるものですが、封建時代は、刀が武士の象徴であったのと同じく、紋付・袴も日常は武士のみに許されたもので、武士たるの威厳を示すものであったのです。
 剣道着・袴は武士が武徳の涵養を目的として修行するために正装を簡略化したものですから色彩については特別には規定していないのです。
 なぜなれば礼装の色は、洋の東西を問わず「シンプル」が常識だからです。
 当今は「さむらい」とか「武士道精神」とかがはやり言葉のようにつかわれてていますが、「武士道精神」と「武道精神」を混同して論じていることがあるのと同じく、剣道着・袴の色についても、武士が戦場に赴く晴れがましく煌びやかな色彩の武装と、前述の如く、武徳の涵養を目的として修行する服装とを混同して論ずると正当な結論を得られないのです。
 剣道着・袴がどういうものかが分かれば、その着装法も正しくなければならないし、着装法の由来等をも知り、次代に伝えていかなければならないと思います。
 先ず剣道着についてですが、現在市販のものは左右に乳紐がついているので、それを結びさえすればいいので、洋服は男女で前の合わせ方が異なるのに、日本の着物は男女共なぜ左が外になる着方をするのかなどの疑問が起きませんが、それにはそれの興味深い由来があるのです。
 衣服の着方は、原始的・基本的な型の一種「貫頭衣」から、その前面を割って合わせる着方に発展していったものですが、その合わせ方は永い期間一定ではなかった。
 しかし、紀元前7世紀頃になり、黒海の北辺に栄えた遊牧民族「スキタイ」は、騎馬による機動力と得意にする弓という武器によって、周辺地域を侵略し征服して栄えたが、その武器とする弓を使用するためには、衣服の前割りの左側を内側にして着る方が、矢を射るのに都合がよいので、スキタイの騎馬民族は、前割りの左側を内にして着るようになったのです。
 侵略される側にとっては、左側を内にして着る騎馬民族は、まさに恐怖の対象でした。
 したがって、それらの地域を含むラテン語域では、左が不吉、死を意味するものになり、いつしかそれが征服者を象徴するものとなったのです。
 中国でも紀元前2世紀頃までの代々の王朝は、左襟を内側に着ることを慣わしとしていましたし、日本でも紀元806年、空海が伝えた真言宗の僧侶が着る「偏衫」は左襟を内側に着るのを正しいとしているし、一般的にも、日本に大陸文化が伝来する古墳時代の5世紀頃までは、左襟を内側にして着るのが普通でした。
 しかし、前述の中国代々王朝の左襟内の慣わしは、周代(紀元前1030年から1211年)に世界認識のための概念として使われ始めた「陰陽五行説」が漢代(紀元前1030年から紀元220年)にいたり、今日的な理想体系の体裁を整え、左を陽、右を陰とする思想体系が確立し、中国社会のあらゆる形態が左優先となったので、衣服の着方も左襟を前面に、右襟を内側にして着るようになったのです。
 日本の聖徳太子は、中国の制度や文物の吸収に務められたが、着物の着方もその一つで、その普及に力を注いだ結果、養老3年に「天下百姓右襟令」が出され、以後、日本独特の発展、変遷を経て完成された日本の着物も、右襟を内にすることが慣わしとなり、今日ではそれが当たり前、だから規則には着方をわざわざ規定していないのです。
 柔道でも柔道着の着方などをわざわざ規定していなかったので、相手によっては襟を反対にして着た方が有利だとして試合をした外国人選手があったので、着方の規定を作ったそうです。
 剣道着は着方によって有利、不利などということは起こりませんが、世界的に普及すればするほど、いろいろの考え方や習慣・行動などが混入し、日本の古来からの伝統文化剣道がそのアイデンティティを失い、余り存在価値のないものになってしまうおそれもありますから、剣道のあらゆる部分に潜在する日本の伝統文化を後世に継承する義務があることを自覚する必要があるのです。
 次回には洋服は男女によって前の合わせ方がなぜ異なるのか触れてみたいと思います。

                         剣道試合規則第5条